論考

Thesis

卒塾にあたって

入塾動機-何故、松下政経塾を志したのか-

 この三年間研修をして来た松下政経塾を卒塾する事となった。今回は、塾生としての研修を振り返り感じた事、深めた問題意識、また、現在の日本と世界を取り巻く状況についての私の考え・見方を述べ、最後に卒塾にあたっての心構えを述べ、月例報告としたい。

 思えば、この三年間は世界も日本も激動の日々であった。9.11のテロ以降、世界も日本も新しい時代に入ったと言われるが、決してあるべき姿に近づいているとは言えない。理想の姿どころか、私には日本は益々、迷走し悪い方向へ行っている気さえしている。そのような中、自身の真の使命とは果して何であるかと悩み、苦しんだ日々もあった。しかし、それでも、この塾での3年間は非常に充実した日々であったと思っている。

 私が政経塾を志した理由は端的に述べると、今、私がこの国に住んでいて大変な危機意識と絶望に近い思いを強く感じ、とにかく何とかしたいという思いを抱いたからである。入塾を志した時、私は中学校で社会科を教えていたが、目の前の生徒の事を考えても、日々伝わってくるニュースを聞いていても、私には日本の現状も今後にも全く楽観が出来なかった。

 私は、ある時、かつて出版された、『リーダーを志す君へ 松下政経塾塾長講話録』や『君に志はあるか 松下政経塾塾長問答集』などの本を読み返していた。その本を読んでいると、はるか20年前に松下幸之助塾主が危惧した事がそのまま現実になってしまったという感じがした。当時の講話を読んでいると、本当にこの国を憂えていた松下塾主の生の言葉が伝わって来た。この本に収められている講話は昭和57年、58年になされたものだが、今から20年近く前に話された内容であるにも関わらず全く今でもそのまま通用する話しだと思った。

 そして、残念な事に私には、現在の日本は塾主がこの本に収められている講話をされた時以上に悪くなって来ているように私には感じられた。経済不況から抜け出す事が出来ない事、相変わらず政治の混迷が続いている事も大きな問題であるが、もっと大きな問題は当時以上に日本社会のあちこちで倫理観が低下して来ている事ではないかと思った。日本がこのようになってしまった原因を根本的なレベルで考え正面から取り組まなければならないのではないか、というのが私の問題意識であった。私は何とかこれ以上日本が没落しないように処方箋を考えて実行したいという強い思いを抱き、自分が行くところはここしかないと思い政経塾の門を叩いた。

一年目の研修

 最初に入塾後、一年目の研修を振り返っておきたい。我々の研修は、4月から5月の関西理念研修を皮切りに始まったが、6月にはワシントン研修が行われた。この時はまだ、9・11のテロが起こる前であった。ここではアメリカ・ワシントン研修で得た事について言及しておきたい。

 私はこの研修で、アメリカという国の本質について考える事が出来た。この研修の前後に『グローバリゼーションという幻想』(ジョン・グレイ 日本経済新聞社)という本を読んだが、その頃から私は国内ではしきりに正の側面ばかりが強調されるグローバリゼーションの負の側面について考えるようになっていった。また、実際にアメリカに行ってみたが、アメリカは世界に冠たる自由主義の国という事になっているが、本当にそうなのかという事をこの研修で深く考えさせられた。この研修はまだ、9・11のテロの前であったという事が今から考えるととても不思議な気さえする。

 現状をどうみるかという問題にも関係があるが、グローバリゼーションについてどう考えるのかは非常に難しい。今を「やがて世界がアメリカ型市場経済に統一される前の段階」とみるか「世界はいつまでも複数の文化・文明とそれぞれの文化に即した資本主義が存在し続ける」ととるかによって見方は当然分かれてくる。私は個人的には後者の考えを持っている。経済体制というものは資本主義であっても全て同じではないし、文明・文化・民族性などと経済は切っても切り離せないものだからだ。この研修や後のテロ、そしてその後のアメリカの一国主義的な行動とひたすら追随する事しか出来ない日本の現状を見ながら、私は後に言及するように、自身のテーマの一つとして、「日本とは何か」「日本の国柄」とは何か、そして本来果すべき役割とは何かという事をもっと考究して行く事にした。

 一年目はこの他にも充実した研修を行った。共同研究で全国政令指定都市をまわったのも重要な思い出である。「地方議会の復権」をテーマに同期7人で、予め政令指定都市の市議の意識調査を行い、その後、各都市の駅前で街頭演説をして市民の意識を調査した。日本を代表する都市の街頭で政経塾生である事を名乗り、青い旗を立てて市民の方にアンケートをお願いした。同期の結束を高めた事、地方政治の実情と課題について知った事、更に政治と市民の意識の乖離についての認識を得た事など意義のある研修であった。

 また、韓国スタディーツアーでは、金泳三元大統領の私邸を訪問してお話しを伺うなどの経験もした。二年目の秋であったが、同期で中国スタディーツアーに行ったのも大きな経験となった。一年目にアメリカに行き、更に韓国にも行ったが、アジアの大国、中国にも実際に行って、政治・経済の一端に触れる事は大きな経験だった。ちょうど、その頃は、中国共産党の大会が開かれており、今の胡錦涛体制が始まった時であった。アメリカと中国の狭間で日本は今後、どのようにして主体的に生き残って行くのか、更には生き残るだけではなく、日本ならでは方法で世界をリードして行くためにはどのようにすれば良いのか(力対力の論理ではない論理を出していくのか)という事が大きな課題となってくるが、これらの海外での研修を通じて多くの事を考えた。

何故、教育問題に取り組んだのか

 私の根本的な問題意識は、「果して日本は経済さえ回復すれば、復活するのか」という事であった。私は、今の日本をみていて、日本人の心の荒廃・中身の乱れが一番の大きな問題であると思ったからである。そもそも政経塾を志した原点もそこにあった。私は狭義の政治の問題(政策を打てばすぐに結果が明らかに現れるという意味)ではないが、明らかに社会の問題で、なかなか政治の課題にはならない事にも取り組んで行きたいと思った。

 私は、個別実践活動で教育問題をテーマとした。理由は教育問題が、今の日本の抱えるもっとも大きな問題の一つであると思ったからである。教育問題は全ての人が当事者であった経験から誰も何かを語る事が出来る分野でもある。また、結局は現場にかかっているというミクロの議論と、制度としての教育政策というレベルでどうするのかというマクロの議論の両方見なければならない。教育は国家(社会)をどうするのかという視点からも、その社会の中で生きる個々人がどう生きるのかという視点からも非常に重要な問題である。私の関心はこれからの日本を生きて行く子どもの心がどういう状況にあるのかという事だった。

 二年目以降の、現地現場研修においては、実際に、様々な意欲的な取り組みをしている、フリースクールなどをまわる事にした。そこでは様々な子どもや、新しい教育実践をしておられる方と出会った。神戸でモンテッソーリ教育を実践している「ラーンネット・グローバルスクール」、不登校児童の教育に当たっている全寮制の「北海道夕張自由が丘フリースクール」や自治体の設置した不登校児童対策施設「兵庫県立但馬やまびこの郷」、またルドルフ・シュタイナーの教育論を実践する、「東京シュタイナーシューレ」などの様々な学校・施設に長期に通い、実際に住み込むという研修を行った。

 これらの場で私が考えた事は、今の日本は予め決められた「幸福像」(戦後の高度成長期の価値観。もっと遡ると明治以来の近代化を支えて来た価値観)がまだ根強く残っている反面、どうしても、今の社会の支配的な価値に違和感を覚える人達が、自身の価値を信じて新しい教育実践をはじめているという事で過渡期にあるのではないかという事を感じた。

 特に不登校児童の問題については、私はかなり強い関心をもって研修を行った。本稿ではなぜ不登校問題に関心を持ったのかについて少し多めに言及しておきたい。過去の月例報告にも少し触れた事はあるが、私が不登校の問題を考えたのは、不登校問題を自身の事として考えたからであった。私自身、今思い出してみてもそうなのだが、子どもの時から思春期に受けた教育や学校・先生と言うものについてほとんど良い想い出はない。当時の教師や教室の雰囲気、充満していた空気、価値観などの殆どが嫌な思い出として蘇ってくる。小学校5年生から中学3年生までの思春期の5年間の、あの息苦しさと馴染めなさ、辛さは一体何だったのかと思う。今も私は思春期の頃の事を思い出すと苦い気持ちになる。そして子どもの時からもって来た、自身の教育不信の原因は何だったのかとずっと考えている。

 私は教育の問題だけを考えているのではなく、今後の日本のあり様についての様々な他の大きな問題も考えているので、自身はやはり、職業として政治家となって世の中に貢献したいと思い、この政経塾を志した。しかし、私は、政治の道に入るにしても人生の一時期教壇に立ちたいと思い、特に中学校で教えたいという考えをもっていた。これは、かつての自分のような子どもを救いたいと思ったからであった。よくいる教師志望者の様に、子どもの時に好きな先生・尊敬する先生に出会ったから自分もなりたいと思ったという前向きで明るい気持ちからではなかった。私は決して「学校は楽しい所」という感覚を持ってはいないのだ。それは実は今も変わらない。

 私は自分が今、子どもなら不登校にならないとは言い切れないなと思ったし、正直、今も思っている。世の中に公表する文章にここまでの事を書いたのは初めてであるが、自分が教育について考えて来た理由は、上述したように、今の日本を見ていて、子どもがどうしてこういう事になっているのか、国家・社会の未来を考える上で問題があるのではないかという視点と共に、かつての自分のような子どもの割合(学校を嫌だと直感的に感じる)が増えて来ており、もはやどうにもこうにもならない所まで来ているから、ここまで不登校の問題が顕在化してきているのではという視点もあったのである。

 私が拘っていた事は、実は誰にでも当てはまる事なのかも知れない。誰でもその頃(小学校高学年から中学生)は辛いと言えばそれまでである。青年心理学でもこの思春期の心理などは研究し尽くされているだろう。また、逆に皆が辛い訳ではないとすると、私が特殊な人間であっただけであり、そう考えれば、これまたそれまでである。公の問題にはならない。いずれにせよ、私が拘っている問題は大きな問題ではないのかも知れない。しかし、それにしても…と私は思う。感性の鋭い子どもや物事を深く慎重に考える子ども、全体の事を考える精神をもった子ども、正義感の強い子どもが一向に顧みられない学校とは一体何だったのかと未だに私は思うのだ。

 私は自身が児童・生徒だった時からこの国の教育には大いなる疑問をもっていた。不運にも私は自身を認めてくれる教師に殆ど出会った記憶がない。繰り返すが私が特殊で極少数の人間だったのかも知れない。あるいは、私が行った学校がそういう学校だっただけなのかも知れない。また、ここの問題に言及すると非常に政治的になってしまうが、私が通ったような公立学校とは今の日本では往々にして(全部ではないが)そういうもので、公立学校に行かざるを得ない子どもが一人一人大事にされて誰かに理解者として見守ってもらうという事自体が土台、殆どの場合無理なのかも知れない。まさに教育の質、教師の質をどう担保するのか、どういう人間が教師に相応しいか、そして、どうやって教育者に相応しい人間を選抜してくるのかという大きな問題につながってくる。視点を少し変えると問題点が大きく変わり、これらの事に明確な一つの答えを出す事は無理かもしれない。しかし、そうだとしても、機能が崩壊しているとまで言われ、また、多くの不登校児童・生徒を生み出している教育の問題点の原因の何かの部分は、私がずっと感じ続けて来た事に明らかに関係はあるのではないかと思った。

「夕張自由が丘かフリースクール」や「兵庫県立但馬やまびこの郷」などのフリースクール、施設での研修を通じて、児童・生徒と直接、様々な事を話し、先生方と話す中で、私はいろいろな事を思った。不登校になる理由は様々であるし、また、不登校児童・生徒のタイプも様々であるが、無理に共通している部分を見つけると、やはり、多数派の価値に馴染めない、無理しても合わせられない子ども、児童・生徒たちだと言う事だ。彼らはそれほど、我が侭なのでもない。また、無気力なのでもない。また、とりたてて暴力的でもなければ、線が細くて気が弱く人見知りをするという事もない。また、逆に何かが特に優れた天才的な部分を持っているという事もない。あらゆる意味で普通なのだ。

 この普通というのは、平凡とか平均とかいう意味ではない。不登校ではない子どもと比べて、際立った特徴はないと言う事だ。不登校ではない子どもにいろいろな子どもがいるように、また不登校である子どもにもいろいろいるという意味で普通なのだ。不登校の児童・生徒にもそうでない児童・生徒にも様々な児童・生徒がいるとしか言いようがないのだ。これは実際に様々な児童・生徒に会い、先生方の話を聞いて感じたことである。では、一体何が違うのかと私は思った。実際には何も違わないからこそ、「兵庫県立但馬やまびこの郷」に来て、1週間のプログラムでまた普通の学校生活に戻っていく子ども多いのかも知れない。

 しかし、私はより大きな視点からみると、これは実は甚だ非科学的で非学問的であり、実験で証明できる事でもないと思うが、どこかしら不登校になる子どもとそうではない子どもの魂には、何か感度みたいなものに違いがあるのではないかという気がしている。私は別に不登校の子ども持ち上げているのでもないし、特に良く思っているのでもない。正直、美化する気持ちもないが、今の学校(=今の日本社会の支配的価値の充満する空間)のあまりに病んだ空気に違和感を覚える(そしてその事を言葉としてはうまく言えない)感性・魂を持った子どもが出てきているのではないかと思う。こういう議論は物事を「科学的」にしか考えられない人には退けられるであろう。しかし、私は心理学者や教育学者と学問的・科学的な議論をしたいのではないので敢えて実感を書いておく。

 こういう事を考えていたら、以前、政経塾に来られた、評論家の小室直樹氏が、不登校の問題は今の日本の最も大きな問題の一つで、これだけ、不登校が増えた事自体が、日本の教育の失敗である事、今の学校を信じている子どもの中から創造的な人間や次代のリーダーは決して出てこないと自分は思っているという事、次代の社会のリーダーや創造的な人間の多くは不登校児から出てくるに違いないと自分は思っている、というような事を言われた。小室氏はそして、引き続き不登校問題をもっと深めるようにと私にアドバイスをして下さった。私も何となくそういう気がする。しかし、実際問題、今の日本のシステム(及びそれを支える思考をもつ大人が多数である状況)が続く限り、次の時代も指導的な地位に着く多くの人間は今の教育の中で今の価値観を刷り込まれる事に違和感を持たず育ってくる人間から出てくる事が想像出来る。そして創造的な人間はあまり出てこないという事になろう。そういう社会にならないように私はしていきたいと思っている。何らかの方法で今後ともこの問題には関わって行きたいと思っている。

日本の精神状況についての私見

 さて、日本人の心、特にこれからの日本を背負う子どもの状況はどうなっているのか、という問題意識から私は広く「教育問題」をテーマに、様々な現場に行っての研修を進めて来たが、この塾での三年間は、一方で、自分なりに「日本とは何か」という大きなテーマにも取り組んで来た。政経塾の設立趣意書の中には、「…人間とは何か、天地自然の理とは何か、日本の伝統精神とは何かなど、基本的な命題を考究、研究し…(中略)…政治、経済、教育をはじめ、もろもろの社会活動はいかにあるべきかを、幅広く総合的に自得し、強い信念と責任感、力強い実行力、国際的な視野を体得するまで育成したいと考える。」と書かれている。

 人間とは何か、と考える事は自身をよく見つめる事でもある。日本の伝統精神とは何か、と考える事によって、今の日本の政治や経済の運営の問題点や誤りが見えてくるものである。特に今の日本のように、のっぺらぼうのグローバリゼーションを無条件に受け入れ、個々人は働き方からライフスタイルまで否応無しに変革を迫られ、さらに軍事の面では「国際貢献」の名の下、一国主義にアメリカの言いなりになるしか方法はなく、更に農作物を初めとする食物も皆、ひたすら「安ければ良い・安くなければならない」との価値観の下、益々自給率は下がって行くという状況の中で、日本は軸足をどこにおいて政治を行って行くべきかという事を真剣に考えなければならないと思った。それには、これまでの日本の歴史を知ると共に、一見、迂遠なようであっても、この国の精神的なものをもっと深く探求しなければならないのではないか、またそれは書物によるものだけでは不充分なのではないかというような意識を持ち初めた。

 具体的には、私は二年目から修験道の修行に取り組んで来た。今の日本と世界の状況に対して同じ問題意識を持っている、塾生の同志・先輩塾員と共に、霊峰を登るというような事を定期的に行って来た。最初は、二年目の初め、一期上の塾生に勧められて始めたのであったが、不思議なもので、修行を続けると、今までとは違ったレベルで、日本と世界の政治の問題の本質が見えるようにもなって来た。

 自分の修行という観点からみると多くの課題があるが、「日本を知る」のは書物による研究だけでは限界があるという事を私はこの研修を通して掴んで来た。これらの事はなかなか表現しにくい事ではあるが、現在の日本の混迷を解く鍵‐すなわち、日本の国柄を考えた政治が行われていない事に起因する諸々の問題‐を自分ではこの修行によって得たと思っている。

 話しが変わるが、これもかつての月例報告で一度触れた事があったが、私は今の日本の大きな問題は、今の日本人が畏れというものを知らないという事から来ている部分が多いと思う。サムシンググレートを意識して生きている人がいなくなった(少なくなった)という事である。目に見えないものを畏れ敬う気持ちが日本人からなくなり過ぎていると思う。誰も見ていなければなにをしても良いという考えが様々な不正を生んでいるのではないだろうか。誤解を怖れずに書くと、世の中から宗教的なるものがあまりに排除され過ぎている事の弊害があらゆる部分で出てきていると私は思っている。このような日本になったのは、意図的に誰か(何かの勢力)が仕組んだのか、そこまでの事はなく、勝手にこういう事になったのかは人によって見方が分かれよう。

 宗教というと拒否反応を示す人もいるだろうが、宗教を語るテロ・カルトが社会に出て来るのも、戦後社会がこれまで脈々と受け継がれて来たものを急に排除した事に原因の一つがあると思う。ここに書く事も、公表する文章で書く事としては初めての事であるが、くわしい目に言及しておきたい。戦後はGHQによって神道は否定され、神社や神道といえば、すぐに「右翼」のレッテルを貼られるようになってしまった。国家神道と戦争のつながりから、戦後、政教分離が憲法に書かれた事にはそれなりに意味も理由もあったと思うし致し方なかったが、日本の霊性まで社会からなくなってしまった事、特に高度成長以降、軽んじられてしまった事は日本にとって不幸な事であると私は思っている。政治がどうこう出来ることでも教育制度でどうこう出来る事でもない、心の部分であるが、私は、日本人一人一人がもっと日本の霊性というものに目覚めて欲しいと思っている。

 それでもまだ、初詣などを通じて日本人が神道と触れる機会がある事や、京都や奈良の観光というかたちでも寺社仏閣を訪れる人が多いのはせめてもの救いかも知れないが(完全に日本社会から霊性にかかわるものがなくなりきってはいないという意味においては)実質的には日本の精神界は形骸化し死に絶えたと言って良いかも知れない。私は日本全体の行き詰まりとこの現象は密接に関わっていると考えている。そして、こういう社会が続く事が良いのだろうかという疑問をもっている。どの宗教が良いとか悪いとかいう話しをしているのではない。宗教・宗教的精神をここまで蔑ろにしてしまって良いのだろうかと思うのだ。

 厳密な意味では宗教ではないかも知れないが、儒教(儒学)も日本社会で戦後は否定された。確かに戦前の教育が儒教のある部分を基底としたもので、これまた国家主義につながった部分があり、戦後根こそぎ否定されたのも理由のない事ではない。しかし、『論語』や『孟子』『大学』『中庸』などの四書などが、全く世の中で読まれなくなってしまった事の弊害は大きい。教育の中に少しでも東洋思想を入れて行くことは私は日本にとって大事な事だと思っている。西洋的価値一辺倒の世界観がいかに薄っぺらかが分かるだろう。特に指導者にとって東洋的な思想や哲学のエキスの部分は非常に重要である。戦後の日本、そして現在の日本に責任階級がいなくなり、上に立つものにろくな人物がいなくなってしまったのは、これらの、「人間とは、社会とは、政治とは」と考える学問を全て社会から捨て去った事にも私は関係があると思っている。

 だからと言って、国家があるべき人間像を決めて、その通りの人間を作り上げるために利用して行くことには反対である。権力があるべき人間像を決める事は絶対やってはいけない。しかし、逆に、人間には良いも悪いもない、とはならないというのが私の考えだ。人間が有史以来考えて伝えて来た事の中には学ぶべきものはあり、やはりそれを伝承していくの事は、身につけた人間が社会を支えて行くというのは重要な事だと思うからだ。その意味で、押し付けの人間教育の道具ではなく、社会の層を厚くするという観点でもっと東洋の古典に触れる場が教育にあっても良いと思う。

 今の日本人はおそらく殆どの年代・階層で日本文化の根底部分を支えて来た宗教や思想を知らない。知識レベルでも知らないし、実践レベルではもっと知らない。しかし、土台、人間というものはものを考えざるを得ないし、また感じざるを得ないし、何某かの「価値観」をもたないと生きることは出来ないのだ。人々の価値観の大きな部分を構成する、日本の文化の根底を規定して来たものが否定され形骸化し代わって、日本に広まったのは、私は「科学教」と「経済教」という宗教だと思う。「科学教」とは「唯物教」と言い換えても良い。自然科学は果てしなく発展し、その事が人類を幸福にすると信じて疑わず、それ以上は考えない考え方だ。ここまで極端な人はさすがにいないかも知れないが、果てしなく近代化が続き社会は益々発展するという考え方の行き詰まりにもっと気が付かなければならないと思う。「経済教」は物質的な豊かさが人生と社会・国家を幸福にするとし、それ以上はものを考えないという思想だ。

 松下幸之助塾主は「物心一如の繁栄」の重要性と説かれた。ご自身は事業家としてまず「物」を豊かにするという事で社会を繁栄させるために大きな足跡を残されたが、塾主は唯物論者ではないし、決して物が豊かになっただけでは日本・日本人が豊かになるとはお考えではなかった。非常に日本人の心のあり様、人々の真の幸福について考えられた方であった。私は教育の問題という意味では道徳教育の問題について研究しその重要性を考えて来た。梅原猛氏は、仏教を基盤とした道徳教育の必要性を説いておられる。

 日本人の精神状況の事を大きなレベルと見ると、今の日本の現状では、急にはどうにもならない気が正直のところ私にはしている。ここに書いた事は、問題意識と問題指摘にとどまっており、何ら解決策を提示していないという批判があるかも知れない。しかし、事は政治・日本国家・社会に関わるもっとも重要な部分である。すぐに状況が飛躍的に何か変わるような解決策を出せると思うほうが私は軽薄な発想だと思う。本当は教育の一からの見直しと政治家・経営者等の指導者層の中身の変化がもっとも必要な事だと思うが、これは政策レベルで容易に何か出来る事ではない。特に指導者の質の転換は、まさに我々が身をもって実践するしか方法のない事であって、施策をどうこうして変えられるものではない。ここでは現状に対する私見を述べるに留めておく。しかし、これもまた非科学的だが、今後は勝手に世の中がジワジワと動いて来る状況が起こり、これから大きく日本は変わって行く気がする。根拠がある訳ではないが、そういう流れに日本は動き始めていると感じるのである。

私の目標-真っ当な日本へ-

 様々な研修の中で思索を続けて来たが、研修を行い思索を続けるほど、今の日本が真っ当ではないという事を強く感じるようになって来た。政治も真っ当でなければ、教育も真っ当ではない。日本人の心自体が乱れている。私のいう「真っ当」とは人工的な秩序が正しくあるという事ではない。私のいう真っ当な社会とは、極めて平たくいえば「人間」が尊重され、人々が普通ある程度真面目に生きれば、自ずと全体が栄えるシステムになっている社会である。果して今の日本は人間が尊重されているだろうか。

 リベラル派の人は、「人権」や「個人主義」と言った人類の普遍的価値観をもっと広めて行かなければとよく言う。しかし、「人類の普遍的な価値」というものは私はないと思う。それぞれ、その思想が生み出された土壌・風土・歴史的背景があってそこから発展してきたのだ。今の日本、戦後日本の不幸な現状は、まさに木に竹を継いだような民主主義や人権や個人主義思想が広まった事にあると思う。土台を全部なくしてそこに、戦後、外から入って来た考えの上澄み液だけを吸収したからだ。古来、日本は「和魂漢才」や「和魂洋才」と言って、塾主のいう主座を保った上で、様々なものを吸収し発展させてきた。しかし、今は主座が保てていないのではないだろうか。主座を保った上で、人類の歴史で発展し今の世界の潮流となっている考えを受け入れて良い方向で吸収して行かなければならないのだ。

 現状は日本人の有りようというものを、文化・国柄といった所から考えられてない。だから、「経済教」・「科学教」から脱する事が出来ないでいる。大事な事は主座を保って行くという事である。日本の保つべき主座とは何かという議論抜きに、新しい社会像をあてずっぽうに予想してそのライフスタイルに合わせるというような事では益々社会そのものが漂流し、漂流する社会の中の個人もまた漂流するという事が続くであろう。主座を保って、初めて世界的な潮流にどう対処するのかという議論も始まるのである。日本の文化や人々の生きよう、歴史などを振り返って何が大事なのか、何が世の中の軸になるべきかという側面からあらゆる政策分野-農業でも外交でも環境でも教育でも福祉でも-について考えなければ、いくら個別分野の「政策通」が増えても日本は救えないのである。本来的には「国柄」というものに基づいて社会が運営されていれば達成されるのだが、今の日本はこれほど経済が成長し「豊かな社会」が達成されても決して実現されていないのである。

 今の日本は依然として大きな危機の状態にあるし、そこに生きる人々も不安に満ち溢れている。松下幸之助塾主がこの政経塾を設立された時以上に状況は悪くなっている。設立25周年を目前に控えている松下政経塾であるが、塾員・塾生の使命は益々重くなっている。今の危機の本質は経済(景気)が回復すれば解決するという性格のものではない。にも関わらず、危機の本質に気付いている人、そしてその原因にまで思いを馳せている人は残念ながら指導者階級でも少ない。ここを何とかするのが、塾生になったものの使命だと思う。塾主がいわれた「狙うところは日本を救う事」という言葉を今こそ噛み締めなくてはならない。

 よく、この政経塾では、審査の場や日常的な塾生間の議論で「最終的に君は何を実現したいのか」というような事が問われる。世間が人に求める「何が出来るのか」ではなく「何を実現したいのか」を終始問われるのが、この政経塾が「志の塾」である所以でもある。この大きな問いに対して具体的で実現可能性の高い回答を効率よく答える為に用意するのは難しい。私は一言でいうと「日本を取り戻し、日本を護る」役割を生涯の仕事で果たしたいと思う。

 それは何か法律を作ったり改正したりすれば終わりという事ではない。また、議員ポストにつく事が出来ればすぐに実行出来るというレベルのものではない。私は、日本人の幸福の追求が、外から与えられたインセンティブ(それも半ば洗脳に近いもの)によるもののみで行われ、社会が人々を「勝ち組み」と「負け組み」に分けるというような、今の日本人(社会)の歪んだ人間観・社会観を何としても転換させたい。そして、時には「政治」という方法で、制度作りの現場で、時には、また「教育」という方法で人々(子ども・大人)の精神に影響を与える場で、自身が信じる理想の日本を作る為に尽力をして参りたいと考えている。

(「卒塾論集」収録論文を大幅加筆・修正)

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吉田健一の論考

Thesis

Kenichi Yoshida

吉田健一

第22期

吉田 健一

よしだ・けんいち

鹿児島大学学術研究院総合教育機構准教授(法文教育学域法文学系准教授を兼務)

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