【はじめに】
正月を迎えると人知れず伝統に思いを寄せるのはごく自然なことである。上古に比べれば平成の生活様式は一変しているのであろうが、人間としての感受性、日本人の感性はそれほど変わっていないと考えてもよいであろう。たとえば正月に小倉百人一首を楽しむ家庭は日本全国に無数にあることはその証左であろう。平成18年は『古今和歌集』成立1100年であるが、そこに入集の小野小町による和歌に「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」というものがある。花の美しさが失われていくことへの愛惜の念は、人間として自然な感情である。美しさというものが古代ギリシアのイデア論のように本来的に花の属性であって、「美」そのものは失われることは無い、と哲学的に主張しても、この和歌に詠まれた心情としては時が経つと失われてしまう花の美しさに意識が向けられている。そして、その心の動きに共感する人々がいる。
失われていくのは花の美しさだけではない。人間の健康も失われていく。強固に所有しているはずの財産にしても何かの拍子で失われていく。身体の一部のように錯覚している名誉にしても見方を変えれば外部からの借り物のようなものであって保持することは困難である。人間は一体、何を持ち得るのか。日々の移ろいに晒され、やがては一生を終えることは、現代人にしても上古の大宮人も同様である。本稿では、無常と人間、そして人間の生成発展について考察する。
1.無常
日本思想史で必ず取り上げられるものの一つに、「無常」というものがある。とりわけ仏教の僧侶は「本来無一物」として、人間は本来、何も持っていないと考えている。これに従えば、人間が持っていると思っているもの、手近にあると思っているものはすべて失われていく。これを無常ということばで表現し、日本人の人間観の大きな流れの一つを形成した。
いろいろなものを所有していることを当然のように考えているのが現代の日常である。しかし一方で、本来無一物という考え方を前提にすると人間はいかなる存在となるのであろうか。人間が持っているものは何も無いと考えると、執着しない生き方を選択する人間になると一般的には考えられる。最近は「こだわり」ということばを冠した料理屋、旅館などが多く見られるが、日本人にとって「こだわり」は拘泥や執着につながり、評価されるものではなかった。こだわりやとらわれの無い生き方、与えられた生にひたすら耐えていく生き方を人間本来の生き方として求めていく人間観を日本人はかすかに記憶している。人間の生が結局は無と感ずるところに帰し、人間が手近にあると感じているものもすべて失われると考えた場合、人間の存在は無という否定的な要素を絶えず内包した存在であるという見解に至る。こうしたあきらめや諦観に似た人間観が主として日本古来の仏教によって伝えられてきたもので、容易に納得はせずとも今なお理解することは可能な日本人の人間観なのである。
この無常は今日的なニヒリズムとは異種のものである。飢餓も戦争も疫病の流行もそれほど切迫している訳ではない現代日本において、死は遠い存在のように思われることが多くなった。現代は死を意識しない分、無常観も遠のきニヒリズムが幅を利かせることとなった。人間は人生において何も期待することなく、無常な人生を無常であると意識せずに甘受するというものである。
2.ニヒリズム
日本思想、主に日本仏教における無常と原始仏教の無常が一致していると考えられることは少ない。老荘思想、道教の哲学などをも取り込んで日本独自の知の営みが独特の無常観を形成した。日本思想史の観点とは別に、老荘の哲学、仏教の空観なども時としてニヒリズム思想のようにまとめられることもある。日本人の無常観の由来とニヒリズムを峻厳に区別することはできない。とはいえ克服しなくてはならない課題がニヒリズムにはある。一般に逃避的な傾向と反抗的な傾向がニヒリズムにあるからだ。既成の秩序や価値の否定、生存は無意味とするニヒリズムの態度は確かに無常観と通じるものがある。人間観として問題になるのは、無意味な生存への安住、既成の制度や文化の破壊をも志向しかねないニヒリズムが人間観を虚無なものへと変質させる可能性を有しているところである。
ニヒリズムと言わないまでも、人生の無意味といった漠然とした不安や不満といった状況を克服していく方法に関して人間は試行錯誤してきた。安直に思いつくものは、刹那的な生き方、享楽主義といったものがある。とにかく今日、今この瞬間を楽しんで生きればいい、面倒なことを思い煩うことなく毎日が楽しければそれでよいというものである。ニヒリズムの克服などとも考えずに誰もが無意識のうちに実行している生き方である。しかしこれはそれほど容易ではない場合が多い。享楽的に生きるにしても、楽しみようもない苦しみは訪れるし、辛いこと、嫌なことはやはり発生する。そうした現実の中で毎日を楽しむことにはかなり強固な意志が必要とされる。
享楽的に生きるにしても意外にも意志や努力が必要であるとすれば、それが可能なのは一般的に病弱な老齢の段階ではなく、健康な青年期である。たとえば金銭的にどんな事情があろうとも、最終的には身体機能が若く健全で意志が強固であれば「楽しむ」という状況を用意することができる。一方で人生はこま切れの時間の集合体ではなく、連続的なものであるという事実がある。いくら青年期に享楽の限りを尽くしたとしても、壮年期に数々の誘惑に身をゆだねたとしても、人生の意味を考えざるを得ない瞬間がいずれ訪れる。
ニヒリズムを克服しようとして享楽主義に転じたところで、連続体としての人生を考えると所在の無さに不安を感じるのが人間でもある。そこで、一変してニヒリズムに徹する生き方も考えられる。すなわち人生における様々な苦しみ、悲しみ、あるいは様々な悪徳に至るまで受け入れてしまい、多くを望まない生き方である。人生を無意味なものと考えて絶望的な態度に徹し、希望も期待も全く持たない絶望の人生も考えられる。
しかし、絶望に徹することも現実的には長くは続かない。いくら絶望の淵に沈んでいたところで、どこかで好都合な話があれば急に気が変わり、絶望することをやめることはよくあることだ。いわばニヒリズムの弛緩であり、リラックスした絶望といった状況も訪れる。そして時間が経つにつれ、その絶望した時間すらも、長い人生にとって意味あるもの、懐かしいものとして意味づけられ、かえってニヒリズムの方が無意味なものに思えてくる場合の方が多いかもしれない。職業に従事する者であれば仕事に打ち込むなどして人生の無意味さに耐えることもあろうが、結局は仕事に意味を見出し、ニヒリズムとは異種の境地に達する人もいる。意外にも純粋なニヒリズムに徹した人生とは難しいものなのかもしれない。
3.無常と生成発展
社会にしても国家にしても同じままであることは無い。不断に、そして無意味にも思えるくらい異なる側面を人間に見せつつ、人間を一喜一憂させ、翻弄することが多い。世間が変化しているだけではない。実際は人間自身の変化を映し出しているのが世間であって、社会は実のところ何も変化していないのかもしれない。とはいえ一個人を取り巻く人間社会が流動し変化しても、人間社会が解消される、無意味になることは考えにくい。ものがそれ自体として存在を維持しつつ変化することと、ものが自己の存在を失ってしまうことは全く別のことである。全く別のものになってしまって、何らの自己同一性も残存していない、ということは永く継続してきた人間社会においてはなかなか考えられない。ニヒリズムに徹することを考えたところで、人間それ自身にしても、世間にしても、何らかの意味を持ち、何らかの自己同一性を保っている以上、純粋な無意味というニヒリズムの仮想を、人間は現実的には設定し得ないと考えることが妥当であろう。
常なることは無い世間ではあるものの、脈絡の無いものでもなく、また断絶された無意味なものでもない。そんな世間に取り囲まれた人間も一時的にニヒリズムに浸り、その気分を味わうことができたとしても、それは一瞬の仮想に過ぎない。こうした意味においてまさに無常観は人間をアトム化させない深遠な知恵である。常なるもの無し、とする考えは厭世的に聞こえるものの、世間を、そして人間を粗末に扱わせない意志を含んだものであるようにも思えてならない。
実生活においては、毎日を人間は今日もまた同じだろうと考えて生活している。そして明日もまた太陽は東から昇ってくるだろうと期待している。だからといって無常観を持ち合わせていない訳ではない。常ならざるもののうちに相対的な安定、静止を見ているということであり、さらに生成発展については、もっと積極的な見方をすることは可能である。まさしく人間が無常について深く思いを致すのは、この生成発展の際においてである。人間自らの内に考え得る可能性が外に現れて現実化される過程は、いわば自らを対象化する過程である。自己観照に最も適したこの時こそ、無常について思いを巡らす瞬間でもあるのだ。精神が自己のうちに持っている可能性のすべてを自己の奥底まできわめつくし、これを外化し対象化し、これを自ら認知する形において、すべてを自らの外において見ながら無常というものが認識されるのである。もっとも、漠然と自己の内にある可能性というものが本当に存在するのかどうか精査していかなくてはならないが、人間の内にある何かが発現してくる可能性があればこそ、人間社会はこれまで生成発展して来たのであろう。そして無常ということはこれを前提としてきたことであって、生成発展があってこそ無常に一つの意味が付与されるのである。この意味において、漠然とした無常観は実は意味あるものへと変化していく。
無常の世であればこそ生成発展というかたちをとりながら、人間の内に秘められたものが発現して、進行する。その一方で、注意しなくてはならないことは、いくら熟慮を重ね、最新の衆知を集めた人間観に基づく政治や経営の理念を実現することを仮に目指したとしても、無限に近接し得るだけであって、この無限の道程に絶望の如きものを感じなくてはならないことだ。この無限の進行は、単なる生成消滅ではなく、生成発展の連続であったとしても、この無限の過程にやがて絶望を抱かざるを得ない瞬間は到来し得る。また、それだけでなく、もしも人間がいつも無限の生成発展の途中にあるのだとしたら、そして人間はいつも何かへの準備段階、未発達段階にある過渡的存在に過ぎないのだとしたら、それ自体としては中途半端で価値を持ち得ないことという事実に対して不満を抱くこともあろうし、絶望することも考えられる。難しいのはこの加減であろうが、人間はいつまでも到達できない生成発展を希求しながらも、ニヒリズムに陥る前に無常の知恵を思い出して立ち止まる必要もある。
生成発展は万能ではない。生成発展をめぐる人間観の議論は尽きることがないが、一方では無常の知恵がある。未来や将来の不安定な生成発展のためではなく、直接それ自体で絶対的なもの、究極的なものはまさにこの無常という摂理にこそ人間観を立脚させる必要があるのではなかろうか。その無常の諦観から生まれる生成発展が確実に人間を動かしてきたものと私は考える。(了)
参考文献『現代日本文学大系 60 小林秀雄集』 1979年 筑摩書房
『日本人の無常観』 本田義憲 1979年 日本放送出版協会
『無常(筑摩叢書39)』 唐木順三 1985年 筑摩書房
『数寄と無常』 目崎徳衛 1988年 吉川弘文館
『日本人のニヒリズム』 長崎浩 1992年 作品社


































