【はじめに】
「政治というものは何らかの新しい社会を創造することでも、既存の社会を抽象的な理想に合致させるべく改造することでもない」とマイケル・オークショット(1901〜1990)は述べている。合理主義による急激な社会改革をソーシャル・エンジニアリングと見立て、懐疑の念を提示した英国の政治哲学者がもし存命であれば、平成改元以来、政治改革から始まって昨今の郵政改革に至るこの日本の十数年にどのような分析を与えたであろうか。確かに三千年前に比べたら、人類は科学技術を高度に進歩させた。そんな進歩とは無関係かのように盗みや傷害、殺人とった事件は現代社会において頻発している。猟奇的な事件などが報道されると、人類は実は退歩してしまっているのではないかという疑念にも包まれてしまう。そして世間では人間の道に外れた行為を是正するために、教育あり方や政治の果たすべき役割などが議論される。しかし、年月が経てば再び事件や問題が発生してしまう。人間の道徳的向上や政治による改革の推進などフィクションにすぎないのではないかという寂寥たる思いが募ることも珍しくはない。
とはいえ、では人間社会や政治が退化しているとは、どういう状況を指すのか、という問いかけについて満足に答えることも、また困難である。長らく政治の対立概念として議論されてきた改革と保守について考察を進めてみたい。
1.改革と徳をめぐる問題
政治が改革の必要性を見出すきっかけは、何か社会に問題を発見し、これでは人間として、あるいは社会として、おかしいと懐疑するときである。おかしいと「人間として」判断する規範が長らく、「徳」や「道徳」と考えられてきた。そしてこの「徳」なるものは地域や時代を隔てても根幹の部分においてはそれほど差異が無いものとされている。殺人はいつの時代、どこの地域でも詳細な理由無しに禁止されている。駄目なものは駄目、という論理を超えた掟であり、これを守ることも「徳」の一つである。それでも殺人とは言わないまでも反動徳的な行為をする人間は少なからずいる。人間としての徳を守らせるために道徳教育が必要である、といった議論は現在でも聞かれるし、古来、哲学の命題とされた。一例としては、二千年以上前のソクラテス、プラトンなどの哲学者が活躍したギリシアの古代において、人間の徳は教えられるか、ということは議論されている。日本人にとって徳という言葉は、慣習や習俗とつながりの深い儒教道徳の意味合いで想起されることは多いが、古代ギリシア哲学においては論理的な意味合いにおいて議論された。古代ギリシアで徳といえば、卓越した人である、優れた人である、立派な人である、と評する際に、その「卓越」、「優秀」、「立派」といった持ち合わせた属性を「徳」のことを指す。問題なのはその美質ともいうべき徳を教えられるかどうかが甚だ不確かであることだ。徳を教えることが可能であれば、人間社会は少なくとも退歩することはない、という発想もしくは願望がこの命題の背景に見え隠れする。
技術的な知識として数学、音楽、体育などが教えられる、ということに恐らく異論は無いと考えられる。それは言語伝達が容易であるという側面を持つからである。しかし、徳に関しては不確かである。それを知ってか知らずしてか、知者と称するソフィストたちが看板としたのは徳を教えるということであった。しかし、ソフィストたちが教えたことは、法廷弁論や修辞学、価値相対論などであり、一面では徳ともっとも対極にあるものだった。
古代とは異なって、核家族が家族形態の主流となった現代日本において、子に徳が教えられるかという議論がなされても、直面するのは親子間の相当の断絶という現実であって、徳にまで議論はなかなか発展しないかもしれない。たとえ自分の人生経験を通して考えたことであっても伝えることはできない。老婆心ながらに、思いつきで人生をわたっていくことの困難さ、改革と称しても降りかかるかもしれない危険をいくら聞かせても、改革を信じて疑わない人には伝わらないことも多い。教育の問題としてとても大切な問題ながら、徳が教えられない現実に対して、古代から人類が直面していることに相違はない。とはいえ、改革の発端が、純粋に「人間として」おかしいと思ったことであるので余計、事態は複雑である。
2.改革と徳の関係
保守派の理想とするところは親子間や世代間で徳とは何かを効果的に伝達し、美徳を維持していくところにあるのかもしれない。しかし、前章で見たとおり、徳の保守、継承もなかなか難しい。革新を望む者は、計画主義的に社会問題を次々と解決し、人間社会を改革し発展させることを希求するかもしれないが、これもうまくいくとは必ずしも言えない。人間と徳の関係だけを抽出して分析できる単純な社会などありもしないし、保守や革新といったことばで割り切れないほどに政治や人間社会は複雑なものである。
では人間は一個人として発育や成長とともに徳を会得するものなのだろうか。個人としては、時間の経過とともに何らかの進歩を遂げたいという願望を有していることは自然なことだ。人物が出来ている、などという評価は一般に若年者に向けられず、年配の方に用いられる表現である。年齢とともに人間として高いレベルに到達することを前提としている。
生まれたばかりの乳児は時の経過とともに体重や身長をはじめ身体機能の複合的な成長を遂げる。しかしこうした生理的な成長は二十歳前後で止まり、しばらくして老化現象が随所に顕現する。生物としての成長は二十歳前後でピークに到達するが、働き盛りと言われる時期は四十歳、五十歳の頃である。人間社会、世間のことに熟知して、身体に故障を抱えていない時期に仕事がよく出来ることは言うまでも無い。この時期にある人間を人間的に完成していて、徳が備わった状態になっていると評してよいものかどうか考えを巡らすときに想起されるのが孔子の言葉である。十五のときに志を立て、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十は耳順、七十にして自らの欲するところに従って行ったとしても矩をこえない。この孔子の言葉が現代まで脈々と伝わってきたのは妥当性があってのことだとすれば、四十歳から七十歳までの発展向上は人間の理想とされたことだと言える。もしくは、四十歳前後までに社会性を習得してからは道徳的発展を続け、人生を通じて向上していくことの可能性を説いたものとして解釈されよう。
しかし、人間社会の発展の可能性を現実的に考えたときに、動植物と同様に生理的な成長を遂げ、世間によって教育され四十歳以降、孔子の言う七十歳の境地まで生成発展していくかといえば、必ずしもそうとは断言できない。不断の努力と絶えざる修練が道徳的発展を可能にするかもしれないが、生理的成長と人間社会における実存が人間に徳の伸長をもたらすかといえば、そうとも限らない。
3.改革によって人間の徳は向上するのか
科学技術に関しては格段の発展が遂げられ、生活は時代とともに向上している。現代の生活水準を明治時代と比べれば歴然たる相違があることを意識すればこそ、多くの人が歴史の中に時代とともに人類が発展するという発想を有している。未開社会と文明社会などという分類もこれと類似する発想からなされたものだ。
時代の進歩を謳ったドイツの哲学者として有名なのはヘーゲル(1770〜1831)である。歴史と哲学はそれぞれ別物であり、西洋の思想史上、人工的に結び付けられたことはなかったが、歴史と哲学をつなぎ合わせた歴史哲学などという革新的な仮説を巧みに用いて、ヘーゲルは進歩の歴史観を説いた。この内容については学問なのか政治文書なのか判別しかねるものが多分に含まれているが、その仮説に従った世界史の区分は、オリエントの時代は子供の時代であり、ギリシアの時代は青年の時代であり、ローマの時代は大人の時代、そしてゲルマンの時代は老人の時代である、というものであった。ゲルマン民族がキリスト教の影響を受けて一つの文明史を展開した時代、すなわち中世から近世の時代をゲルマンの時代としてヘーゲルは区分し、これを老人の時代とした意図はどこにあったか。
改革の意義を暗に是認するヘーゲルの時代認識は、上記の孔子の言葉にも通じるなどといったら強弁にも過ぎるのは確かである。しかし時間の経過を伴って人間は完成に到達するという考え方が改革を希求する者として共通していると解釈はわずかながらではあるが可能である。キリスト教には終末のある世界観、結末のある歴史観が含まれているという指摘は周知のとおりだが、ヘーゲルは自らの時代において世界の歴史が完結すると考えればこそ、ゲルマンの時代を老人の時代ととらえたのである。ゲルマンの時代こそ最高の段階に到達した時代であると考え、この意識こそ融合するはずのない歴史と哲学を一括してしまう歴史哲学なるもの根拠だった。ヘーゲルの思想を象徴する言葉に「現在が最高である」というものがあるが、ヘーゲル自身の哲学を内包する現代が産み出されるために、過去の全ての世界史が存在するという前提が込められている。まさしく時代とともに人間社会は改革を伴って生成発展すると信じて疑わない思想である。改革の政治理念の裏付けを果たす内容が充分に盛り込まれている。
それゆえ政治文書としての内容を考慮しつつ、注意しなくてはいけないことは、時代とともに人間社会が発展するという考えの基本には、過去のあらゆるものが現代に蓄積され、それらが現代において絶えず昇華されことが仮定されていることである。ヘーゲル弁証法の術語「止揚(アウフヘーベン)」はヘーゲル哲学の発展概念の基底を成すものであるが、その言葉のとおり、過去の哲学の全てが自己の内部に取り入れられ、それを否定し、さらに向上にむかって人間の智慧が発露されていくとしたら、本当に素晴らしいことであろう。しかし、ヘーゲルの病死から百年も経つと、老人の時代に到達していたはずのゲルマン世界では第三帝国が夢想されるようになるのだから、人間は必ずしも時代とともに社会を、そして徳を発展させるとはいえないのではなかろうか。すなわち、改革の内実は実は空疎である、という考えに至るのである。
4.改革か、それとも保守か
近年、見直されつつあるのは、政治文書としての意味よりも学問性を重視する流れであり、歴史と哲学を一括りにしたヘーゲルに反対した歴史家や人文学者達である。スイスの歴史家ブルクハルト(1818〜97)はその中心的人物であるが、道徳的進歩の観点においてヘーゲルに反駁している。政治や人間社会の進歩など無く、他人のために自己の生命を犠牲にする人間が登場したときに人類は道徳的進歩の最高段階に到達するのであって、それ以上の発展はない、というのがブルクハルトの指摘の根幹を成すものである。第1章で、「徳は教えられるか」という古代ギリシアの議論を取り扱ったが、徳と言わずとも、例えば、この犠牲という概念について教えられるか、といえば相当、困難であり、かつ、それが自ら実践できるかといえば、更に困難であろう。
大人数が関与する政治においては目立たなくとも、困難であっても個人としては徳ある人生を送る人間はいつの世にもいる。おそらく徳を発見し得た人間が多い社会がより文明的な社会ではあろうこと、これは人間社会の発展などというヘーゲル的な改革論議とは無関係なところで語られるべきなのではないか。例えば、自動車の普及具合は民間購買力を象徴し、道路は社会資本整備を物語る、と言われれば、一面では人間社会の進歩を具体的に示しているものとして頷くこともあるかもしれない。しかし、自動車の数や車種、高速道路の総延長距離よりも、文明の程度や民度をはかる基準は、安心して往来を歩けるかどうか、交通道徳が守られているかどうかといったところにあるのではないか。道徳は決して高度に計画された大量の知識の体系でもなく、人間の社会生活を円滑にやっていくための自生的なルールであり、大切なことはそれがどれだけ行き渡っているか、流布しているかというところにある。これこそ求められるべきものであって、保守の思想が発揮され、政治の役割として期待されるものではないか。耳目を驚かす改革を絶叫する政治のあり方と比較するとき、時間の経過とともに虚と実の差が顕著になることであろう。
改革と保守を考えるにあたっては、教育という営みは欠かせないものである。その教育で科学技術は教えることができても、恐らく徳は教えることができないのではないかと考えられる。教育によって「発見する」ということを教えることはできないからである。発見は、自らの仕事であり、自ら自身以外に当事者は無く、自分でやるほかはない。プラトンの『ゴルギアス』はソクラテスとゴルギアスをはじめとするソフィストらの問答を綴った対話篇であるが、知のあり方についての分類にあたって、技術知をテクネーと呼び、思慮分別をソーフロシュネーと呼んで、それぞれ異種の知のあり方として分けた。技術知(テクネー)の特徴としては言語によって説明でき、教えることが可能であるが、徳の一種である思慮分別はそれが困難であることが指摘されている。傍目から見たら何とも遠回りな議論であるが、徳の性質を何とか描写しようと躍起になる白熱した対話篇はいつしか読者を引き込んでいく。たとえこの二千年以上前の著作を読んでも人間社会の営みや政治が生成発展するとは思えないが、古くから扱われているこの徳について自ら取組むものが増えれば、人間社会はいくらか健全なものになるであろう。逆説的なものの言い方になるが、扱いに苦しむ徳があればこそ人間社会や政治に終わりはないのだとも考えられる。迷いつつも保守すべきものがあるから人間社会に存在意義があるという考え方である。そのように迷いながらも試行錯誤され発見されたものが徳や美徳といわれるものであり、保守する対象となるのである。
政治や人間社会における徳そのものの生成発展はおそらくないのだろうが、徳のあり方を探求するならば、その時代性にある程度左右され、千差万別の徳のありようがあるかもしれない。過去の歴史から手がかりを得る、あるいは現在、直面している科学技術や学問の知識と向き合って、自分なりの徳のありようを考えていく、たぶん、これだけで人生が終わってしまうのであろうが、現実の現場にもまれながらも、この事実を発見できたら、それでも自らの徳を発見する機縁を得ることができるのではないか。それが人間として失ってはならないものを保守することであると確信する。一方でヘーゲル的な発展史観は人間を連続的な改革へと誘うものかもしれないが、改革の中身や結果を検証するとき、苦労の割には改革の内実は、自らが発見し、心から保守したいと見出したものとを比較すると空疎なものに見えてならないであろう。(了)
参考文献『ゴルギアス』 プラトン 加来彰俊訳 1967年 岩波文庫
『世界の名著 56』 ブルクハルト 柴田治三郎編 1979年 中央公論社
『市民状態とは何か』 マイケル・オークショット 野田裕久訳 1993年 木鐸社
『歴史哲学講義』 ヘーゲル 長谷川宏訳1994年 岩波文庫


































