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2005年度 月例レポート2005年度 月例レポート

歴史観
2005年6月

松岡洋右を再考する

内田善一郎/松下政経塾第25期生

松岡洋右の外交は何に立脚し、何を志向し、何に躓いたのか。
さらには現代的な問題として松岡外交から何が学び取れるかについて考察する。

【はじめに】

平成17年8月、終戦60周年にあたり戦争と歴史をめぐる論議が沸き起こっている。それらの論議は当然のことながら様々な方面からの検証に基づいている。なぜ戦争に突入したのかという議論は比較的多く聞かれる。一方で、なぜ敗戦に至ったのかという議論も少なくない。ただしこの種の議論が盛り上がりに欠けるのは、こうした議論を組み立てたとしても、歴史に仮定を持ち込んだものとして扱われかねないことによる。とはいえある日、突然にして敗戦の日がめぐってきたのではない。それは恰も昭和60年代のバブル経済から突如として平成不況に突入した訳でもないように、何らかの要因が後になって大きな影響を及ぼし、不可逆変化に至ったようなものである。敗因を検証することは歴史観の涵養に資するものと考えられる。

大きなテーマとして国家と戦争の議論は長い間、論争され、今後も止むことがないであろうが、大きくは政治と結びついた領域であり、その時々の政権や流行のイデオロギーに大きく左右される。他方、当時の国際情勢分析、国内事情検証、そして当事者の人物研究などから、時代の成り行きを読み解き、歴史的な解釈を組み立てていく議論の方法もあろう。

どの時点で我が国の第二次世界大戦敗戦が決定的なものになったのかを検証することは、上記のような国家観の議論とはやや異なり、歴史的な考察が必要とされる。敗戦の要因は言うまでもなく重層的に複合されたものだが、外交上の失態が我が国を敗戦という歴史の流れに方向付けたことを看過することはできないし、今後とも判断材料の一つとして活用されるであろう。多元外交のモデルとしての三国同盟締結までのプロセスに焦点を当てながら本稿では松岡洋右(1880〜1946)についての考察を進める。

1.国際連盟脱退と松岡オレゴン訪問

昭和15年9月の日独伊三国軍事同盟調印に先立つの重大事件として、昭和6年9月の満洲事変、そしてそれに続く昭和8年3月の国際連盟脱退が挙げられる。当時の国際情勢を鑑みるに、中華民国は毛沢東(1893〜1976)による瑞金の臨時政府樹立にみられる内戦の激化、軍閥の割拠よって実質的には国家が分断されていた。イギリスでは深刻な財政危機下にあり金本位制の放棄を余儀なくされていた。米国は大恐慌のため失業者は700万人に達していた。フランスは自国の利権確保のため日本に対して強い反発を見せなかった。

英国のリットン(1876〜1947)を団長とする国際連盟調査団が満洲事変は中華民国の主権の侵害であるとの裁定を下すものの、その裁定にはもともと拘束力などは無く、日本を取り巻くパワーバランスも欧米列強がそれぞれ国内問題を抱えていたことを考えれば、敢えて国際連盟から脱退するなどという短兵急な外交判断を下す必要はなかったのである。確かに昭和7年1月の上海事変の発生により同年5月までの戦闘の表面化は日本への風当たりを強いものにしたが、国際連盟、広く言えば国際社会の我が国の立場は危ういながらも均衡の上を渡り歩けるだけの地位にはあった。見方を変えれば、諸外国の国内事情も厳しい状態であり、相対的に日本だけが劣勢に立たされていたわけではない。従って日本代表全権の松岡洋右による国際連盟総会の議場退席は極めて残念な事態であった。むしろ欧米の経済的疲弊と中華民国の内戦・分断状況を弱みとして捉え、巧みな外交戦で勝利を収めることは困難であるにせよ、惨敗を回避することは可能であったと考えられる。

国際連盟総会の議場退席は松岡の意に反するもので、東京からの指令によるとする説が一般的であるが、松岡の胸中は如何なるものであっただろうか。一部の学者からは松岡の語学力が高く評価されることもあるが、松岡は英米人との日常的な社交のレベルにおいてさえ病的なコンプレックスを抱いていたのではないかと推測される行動が国際連盟脱退後に見られた。不可解なことに当時53歳の松岡はジュネーブから直ちに帰国するのではなく、ローマでムッソリーニ(1883〜1945)と、ワシントンでフランクリン・ルーズヴェルト(1882〜1945)と会見した後、わざわざオレゴン州ポートランドを再訪している。その目的はオレゴン大学在学時の寄宿先で世話になった未亡人、イザベル・ダンバー・ベバリッジの墓碑建立というものである。青年期の松岡の苦学、そして当時の米国における人種差別は想像を絶するものであろう。とはいえ一つ確かなことは、日露戦争講話締結に貢献した金子堅太郎(1853〜1942)のように松岡は日本の国益増進のために米国留学経験を活かすことはなかった、ということである。つまりオレゴン感傷旅行に象徴されるように松岡は親密な国際協調外交のチャンネルを有してはいなかった。のみならず英米人に対する敵愾心やコンプレックスが無意識のうちにせよ心の中に渦巻いていたのかもしれない。松岡の米国上陸記者会見を報ずる米紙の大見出しは「松岡は、日本は米国の属国ではない、と主張した」というものである。米国コンプレックスの裏返しが日本外交を枢軸国側へとシフトさせたとすれば大変、嘆かわしいことである。

2.第一次世界大戦後の枢軸国の国内情勢

欧州は疲弊していた。原因は言うまでもなく第一次世界大戦によるものである。戦後の混乱を終結するため、イタリアでは大正11年にムッソーニが、ドイツでは昭和8年にヒトラー(1889〜1945)が政権を握り、独裁体制を作りあげていた。昭和7年に五・一五事件、昭和11年に二・二六事件が発生するにしても日本より政治的に病的な状況が欧州にて進行していたのである。彼ら独裁者はクーデターで政権を掌握したのではなく、選挙で選ばれ、民衆の支持を得て、合法的に独裁体制を築いたとされる。たとえ9割以上の同意による国民投票がその後、幾度となく隣国の併合など国家の重要な案件の政治的意思決定に用いられたとしても、これが英米法的なコモンローの概念や「法の支配」という概念とは異種のものであることは容易に推察される。確かに実定法には適法なのかもしれないが、「法の支配」に則っているという意味で合法的とは言い難い。オルテガの『大衆の反逆』(1930年)やル=ボンの『群衆心理』(1895年)に見るまでもなく、20世紀以降の民衆は全体主義の危険と並存している。経済的苦境に立たされたドイツ、イタリアでは、民主主義的な意思決定に時間がかかり表面上ではあるにせよ短期のうちに混乱を収拾するためには独裁政治の方が適しているように思えたのであろうか。こうした誘惑に抗うことができず、悲劇に到る道を歩んだ両国の正確な情勢分析を少なくとも国際連盟脱退前に我が国は把握する必要があったはずだ。

日本が国際連盟を脱退したのは昭和8年3月。この年ドイツでは1月にヒトラーが首相就任。世界不況で激化する労働運動対策として、共産党・社会民主党を次々と追放し、独裁体制を固めていった。更に国際連盟に軍備保有権の平等を求めて拒否。それによってドイツは日本にならい、国際連盟脱退賛成が9割を超える国民投票を経た後、同年10月、国際連盟を脱退した。共に国際関係の中で孤立していた両国間に協調を求めるムードが生じた。もしくはその謀略がはたらいたのかもしれない。

3.三国同盟

昭和10年、第7回コミンテルン総会で人民戦線テーゼが採択され、国際的に連帯し共産革命を推進することが決議された。同年イタリアがエチオピアに進出し、国際連盟と対立、翌年エチオピアを併合する。同じ頃、満洲事変後、華北地方を国民政府から分離して日本の支配下に置こうとする華北分離工作が関東軍を中心に推進されていた。昭和11年にはベルリンオリンピックが開催され、ドイツの急激な発展が目を引いた。そして共産党の脅威に対抗し、同年11月、日独防共協定が締結されたのである。当時、それと共にドイツとイタリアも連携を深め、翌年には日独伊の3国による防共協定が成立。この事はイギリス・フランス・アメリカの警戒心を喚起し、第2次世界大戦への道筋が出来上がったのである。

日独防共協定締結時、満鉄総裁であった松岡は「日英同盟に代わる日本丸の新しい舵がやっと造られた」と喜び、日独の提携を「心中にまでゆくべき夫婦の契り」とまで言い切った。大正10年に理事として満鉄入りし、衆議院議員に選出される昭和5年まで日本の満洲経営の最前線で活躍していた松岡は「満蒙は日本の生命線」という大衆扇動的なキャッチフレーズを最初に唱導した人物でもある。その松岡が華北分離工作と無関係であるはずもないが、昭和12年7月、北京郊外の盧溝橋事変によって満洲事変を遠因とする戦火は次第に拡大した。

盧溝橋事変から3年後の昭和15年7月、日独軍事同盟締結を至上目的とする第二次近衛内閣が発足する。松岡は外相として再び外交の表舞台に立つこととなる。日独伊三国防共協定が軍事同盟である三国同盟に発展したのが、松岡が外相就任してからわずか2ヶ月後の昭和15年9月であった。即ちヨーロッパにおける第二次世界大戦開戦から1年が経過した時点であり、ドイツが西部戦線でベネルクス三国のみならず、フランスをも屈服させる戦況の最中での出来事であった。松岡は外相就任直後に三国同盟締結に障害となる親米英派の大使、公使など40名を更迭するという空前の人事異動を実施した。このことが昭和16年12月の日米開戦の大きな誘因になったのは言うまでもない。

三国同盟に対してルーズヴェルト米国大統領は、屑鉄や鉄鋼など、日本にとって欠かせない原材料の輸出を次々と禁止し、厳しい経済制裁を加えた。短期間のうちに日本とアメリカの対決は決定的なものになった。それがきっかけで日本は石油などの天然資源確保のために、これまでの華北分離工作に象徴される北進政策から、南進政策へと傾斜していった。ドイツに叩かれて弱体化した仏印、蘭印への侵攻に踏み切れば、当時米領のフィリピンの安全保障は脅かされ日米開戦は不可避なものとなる。

また三国同盟は日本のナチスドイツについての無知も多分に含んでいる。戦前の日本の教育では旧制高校でドイツ語を学んだが、科学・技術の分野だけでなくゲーテやベートーベン、カントなどを学んだ日本人は人文科学、哲学、芸術の分野でもドイツへの畏敬の念が強く持った。当時のほとんどの日本人がナチスドイツの華々しい外面をみて、その腐臭を孕んだ媚薬に酔っていた。人文学上の崇高なフマニスムスのドイツと、ヒトラー率いる犯罪国家ドイツとの区別が出来なかったのである。まことに残念な事態への帰結がその後に控えているのだが、無知か、謀略か、それともその両者によって実に悪い相手と同盟を組んでしまったものである。

昭和16年4月、松岡外相はモスクワにて日ソ中立条約を締結。日独伊三国同盟にソ連を協力させる松岡の多元外交は、あたかも英米への頑強な牽制力形成を実現したかに見えたが、その幻想はあえなく崩れた。2ヵ月後、ドイツは突如ソ連に進攻。ソ連を加えた4国でアメリカに対抗しようとする松岡の構想はついに崩壊したのである。ナチスドイツを過大評価し、現実から乖離した米国敵視の松岡外交は少なからずとも破綻をきたすことが明らかとなる。第二次世界大戦全体を通して三国同盟や松岡外交は何ら我が国を益することなく、敗戦という悲劇を招来せしめた。戦争という極限状況下で、この外交上のミスジャッジはどれくらい国益を減ずることになったか。悔やまれてならない。

松岡は日英同盟廃棄以降の非常に不安定になっていた日本のポジションをはっきりさせる意味合いで三国同盟を考えた。のみならずソ連をも後ろ盾にした米英との交渉を展望していた。よく評価すれば極めて複雑な多元外交をやろうとしたと言えなくもない。しかし20世紀初頭、パクス・ブリタニカの時代の日英同盟は国益増進に資するものであったことを鑑みれば、個人的な英米コンプレックスや片意地で多元外交に突き進んでしまうことに危うさを感じざるを得ない。パクス・アメリカーナの戦後、日米同盟は我が国に長期間にわたって平和と繁栄をもたらしたことはいうまでもない。松岡が日本外交の表舞台に立った時代は、パクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへの移行期とも言える。そしてそれは一種のヘゲモニーの空白時代であった。その空白を埋めるための松岡の多元外交は複雑極まりなきものであると同時に実に脆いものであった。敗戦から半世紀以上を経た現代日本において、パクス・アメリカーナがいずれは終焉し、世界的なヘゲモニーの空白期到来を予見もしくは期待する人々から、東アジア共同体構想が喧伝されるようになった。地政学上の位置、国力からして、果たして我が国が多元外交に適した国家なのかどうか、この松岡外交の歴史から再考する必要が生じている。(了)

参考文献
『松岡洋右 その人と外交』 三輪公忠 1971年 中公新書
『松岡洋右 その人と生涯』 松岡洋右伝記刊行会編 1974年 講談社
『日独伊三国同盟の研究』 三宅正樹 1975年 南窓社
『松岡洋右とその時代』 デービット・ルー 1981年 TBSブリタニカ
2005年6月執筆
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