1994年12月21日午後。大阪市・中之島センタービル29階の大会議室。歴史街道推進協議会(以下「協議会」)の幹事会が開かれていた。事務局長・真木嘉裕<ルビ:まきよしひろ>さんの報告する声が室内に響く。
「モデル地区の整備も始まり、歴史街道にふさわしい空間が少しずつ整ってきています」。
構想から8年。民間の研究会からの一提案に過ぎなかった歴史街道計画は、いまや、国からも認知される存在になった。関西では、関西新空港、関西学術研究都市、大阪湾ベイエリア開発とともに、関西4大プロジェクトと位置づける人もいる。昨年からは第1期事業も始まり、計画は着々と進み始めている。
歴史街道計画とは、日本を代表する歴史文化資源を国内外の人に紹介するため、官民が広域的に連携して「日本文化の発信基地づくり」「新しい余暇ゾーンづくり」「歴史文化を活かした地域づくり」を進めるプロジェクトだ。「街道」として、古代から近代までの日本史を時代順にたどることのできるメインルート(伊勢〜飛鳥〜奈良〜京都〜大阪〜神戸)と、近畿2府6県それぞれの地域の歴史文化を活かした8本のテーマルートが設定されている。(5ページ図参照)
電車やバスによる移動空間の演出、道路・河川・公園・案内サイン・博物館などの整備、歴史的景観の保全、33の有名史跡を巡るスタンプラリー、各地の観光案内所をネットワークする試み……。
これらは、歴史街道が関係するプロジェクトのほんの一部に過ぎない。発想の根本にあるのは、地域の特性を活かした近畿全体の広域連携だ。
「『歴史街道』というのは、非常に多様な意味を持つネーミングになっていて、基本的には文化、観光、環境保全、地域整備、国際化といった何でもありのプロジェクトです」と協議会事務局次長の井戸智樹さん。
協議会は、鉄道会社や旅行会社を含む57の企業と、建設省や文化庁など10省庁、8府県、8経済団体、59市町村の計142団体(95年1月31日現在)の団体会員で構成されている。
いまや順調に成長している歴史街道計画だが、8年前は海のものとも山のものともつかない状態だった。芽が出るかどうかも疑わしいその種を手渡されたのは、当時若干27歳の井戸さんであった。
■ゆっくりと壷を創るような仕事を
「僕は歴史には全く興味がなかった。飛鳥って場所がいまだにあるとは思っていなかったからね。そんな程度ですよ」。
歴史街道計画は、作家の堺屋太一さんのアイデアだった。そのアイデアを育ててくれる人を探していた堺屋さんは、当時政経塾の4年生だった井戸さんに白羽の矢を立てた。東洋経済新報社主催の第2回「高橋亀吉賞」で優秀賞に選ばれた井戸さんの論文『未来街の可能性を探る−神戸ファッションタウンの例を中心に−』が、堺屋さんの目にとまったのだ。85年のことである。
しかし、政経塾での井戸さんの研修テーマが「地域づくり」だったわけではない。「(大学時代は)運動選手でしたから、勉強しようと思って入った程度の人間ですからね」。
1年目は「運動バカだったから」(井戸さん)、知識をつけようととにかく勉強した。2年目は新しいものを創る力を磨くために神戸ポートアイランドでの研修。3年目は国際感覚を身につけるためにタイ・カンボジア国境とバングラディシュの農村へ半年行った。4年目は実務を勉強するため、自分で会社を創り広告関係の仕事をした。
堺屋さんから話があったのは、ちょうど井戸さんが広告の仕事に疲れていたときだった。ひとつの仕事をしたら、次はそれを壊してまた一から新しいものを創っていかなければならない。流行づくりに関わっても泡みたいなもので、あっという間に消え去ってしまう。
「そういう意味じゃあ、壷を創るような、ゆっくりゆっくりできる仕事で、5年経ったら5年なりの成果が出て、しかも国際的に評価がされるような仕事をしたいなあと。政治家でもない、会社員でもない、なんかそんなもんがあるに違いないと思っていて、この話があった。僕としては不得意な題材でどこまでできるかってことをやってみるのもいいかなあ、というのが発端です」。
5年生になった86年4月、井戸さんは「歴史街道計画」という種を育て始める。
■不遇の時代に関係者を逃げささへんこと、あれは立派だったよね
「とりあえず、2カ月」だった。 予算ゼロ、お金集めから始めなければならなかった井戸さんは、歴史街道なるアイデアを見極める期間を2カ月に設定した。
果たして、3カ月目にも井戸さんはそこにいた。
やり方次第によっては面白いものになるかもしれないという感触を得たからだ。歴史に全く関心のなかった井戸さん自身が、史跡を回っているうちに歴史も結構面白いと思うようになった。
「いまわかっている歴史というのは、せいぜい60代ぐらい前の祖先の営み。もっと身近なものだということを知ってもらえれば……」。
そして何よりも、うまくいけば法隆寺や奈良の大仏など近畿中にある素晴らしい素材を自らの力で世界に発信できる、という面白さに強烈に引かれたのだ。
しかし、計画は一朝一夕には進まない。 堺屋さんがメンバーである「世界を考える京都座会」(故天谷直弘・電通総研社長、飯田経夫・国際日本文化研究センター教授、石井威望・東大名誉教授、牛尾治朗・ウシオ電機会長らで運営)が計画を引き受けて構想を練り始めるが、協議会ができるまでに5年間が費やされている。
「(実務を受け持つ僕が)素人だったから5年かかったという面もある。いまだったら、半分でできるかもしれない。だけど、それほどね、粘り強く食いついていかないと誰もやってくれなかったというのは事実ですよね」と井戸さんは初期の苦労を振り返る。
「関西はひとつ」ではなく、「ひとつひとつ」だと言われる。広域連携で事業なんかできるはずがないと、誰もが思っていた。関西経済連合会は発足時から協議会の会長を勤めているが、腰を上げてもらうまでに2年以上かかった。自治体において、担当者が変わるときに繰越事項で次の人に引き継いでもらえるようになったのは4年ほど経ってからだった。
井戸さんは、企業や自治体に足繁く通い参加を働きかける傍ら、シンポジウムを開いたり新聞に取り上げてもらうなどして、気運を徐々に盛り上げていく。
また、関西新空港開港、関西学研都市、京都1200年祭と、関西でのビッグプロジェクトは94年でピークを迎え、95年以降に大型プロジェクトが用意されていないということも、歴史街道への期待を後押しした。少なくとも2000年までの間、「関西からの情報発信は『歴史街道』ぐらいしかない」(大手旅行会社)のである。
組織の数だけおきてがありクセがある。それぞれの組織に合わせて説得したり、突き放したりしながら、歴史街道計画に巻き込んでいった。年に100回近く会議を持ったこともある。社会経験もなく塾生からいきなり実務を任され苦労する中で、相手を落とす「戦法」も少しずつ身についた。
「不遇の時代に関係者を逃げささへんこと、あれは立派だったよね。20代とか30代初めだったからできたんだと思う」。 91年4月、官民62団体の参加のもと、歴史街道推進協議会が発足する。
■リスクをしょわずにじわじわと
本格的な事業展開が始まってまだ1年だが、歴史街道計画は次第にその形を現わしてきている。 歴史街道のゾーンだとわかってもらうため、会員団体や主要寺社、宿泊施設など約600団体をネットワークして、約1500箇所に挿絵作家の宮田雅之さんデザインのシンボルマークを貼った。新しく標識を作るときは必ず「歴史街道」をどこかに表示することも、自治体間で合意されている。
地域づくりの面では、電線の地下埋設や、道路・遊歩道の整備、標識の色彩統一などがモデル地区(95年2月現在で飛鳥・宇治の2地区、96年には10地区に拡大の予定)で行われ始め、歴史街道のテーマにちなんだ博物館も40の地域で計画されている。
昨年9月には「歴史街道倶楽部」を発足させ個人会員の募集を始めた。なんと月平均で500人以上増えており、会員は半年で3500人に達した。学者や役人など一部の人たちで進められてきた従来型のプロジェクトに対し、市民参加型の運動にするのが倶楽部設立のねらいだ。
当面の重点課題は、国内外の広報の充実である。近畿地方では、『歴史街道−ロマンへの扉』が人気ニュース番組『ニュースステーション』の始まる前に放映されていることもあり、「歴史街道」は見たこと・聞いたことのある存在になりつつある。しかし、全国的に見れば、知名度はほとんどないと言っていい状態だ。全国放送の実現や他局への働きかけも含め、全国キャンペーンを図る。
海外広報は、それ以上に「砂漠に水を撒く作業」(井戸さん)だ。それでも、94年春に東大寺で行われた史跡保全のためのコンサートは世界約50カ国で放映された。同年秋に大阪で開かれた「世界観光大臣会議」では近畿の自治体が共同で歴史街道のプレゼンテーションを行った。来秋に予定されているAPEC(アジア太平洋経済協力会議)大阪会議で海外からのマスコミに歴史街道を紹介するため、英文CD−ROMやインターネットによるデータベースを準備中だ。
一方、海外でのネットワーク形成をめざし、世界各国に英文ポスターやパンフレットを送付。国際観光振興会、航空会社や旅行会社の海外支店、日本料理店など約1千箇所に掲示してもらっている。96年の1月頃には、世界16都市で説明会を開催し「駐在している日本人に歴史街道のセールスマンになっていただこうと思っています」と井戸さん。
歴史街道計画を取材した朝鮮日報の記者は、「日本の長い歴史や文化を外国に紹介する早道みたいなルート。関西地方がどういう変化をしたかということがわかり、大変意義のあることだと思う」と歴史街道計画を評価する。また、「韓国・朝鮮と日本の間にどういう文化交流があったかという、交流の深さを知ることができる」と韓国人として特別の興味を示す。
「全力疾走の勝負をして打ち上げ花火で終わってもね。うちは、各団体がリスクをしょわずにじわじわと行きましょうやというスタンスでやってます」。
■バランス感覚と粘り強さと戦略性
他の地方でも歴史街道と同種の広域プロジェクトが計画・推進されているが、「この計画は他の地域でも絵は描けますけど、絶対実現しません」と井戸さんはきっぱり。関西はすでに年間1億5千万人の観光客が来る場所であり、2千万人の人口と発達した交通網がある。観光客が1泊するか、地域内の人間が動くだけでも充分な効果が期待できるのだ。
また、関係者の利害を調整できる人も必要である。事務局スタッフを7年務める稲永明子<ルビ:いねながめいこ>さんは「官民の調整は、自治体や企業に属したことのない井戸さんだからできること」と話す。
バランス感覚と粘り強さ。協議会関係者が口を揃える井戸さん評だ。「とにかく粘り強い。企業や自治体の説得にしても、その時は駄目でも、その次、さらにその次を読んで長期的に物事を進めていきますね」(協議会事務局スタッフ)。
自分でも「ひつこいですよ」という井戸さん。「長距離ランナーだからさ、3年、5年で考えるんですよ」。その戦略性は早大競走部時代に故中村清さんから学んだという。中村さんは瀬古利彦選手のコーチとして有名であるが、井戸さんは瀬古選手の2年後輩だった。精神主義の指導者として有名な中村監督だったが、「彼が一種革命的だったのは、中長期トレーニングの組み立て。この日の試合に出ると決めたら、半年前の何月何日の練習内容は決まるんです」。
井戸さんは新規事業などに取り組むとき、「勝ってこの辺、負けてこの辺」という落とし所を必ず事務局スタッフに話すという。
「頑張っても少しの成果しか出ないこともあるけど、それがあらかじめわかってればいいわけ。今回は50点取れれば次につながると。20点ぐらいのときはこうやってしのげばいいし、逆に大化けしたらここまでいけるからやってみよう、みたいなね」。
戦略の手のうちがわかると、スタッフも仕事が楽しくなるようだ。87年に採用された最初の専任スタッフである津田政子さんは、「仕事の始めから結果までが手に取るようにわかるのが面白いですね」という。
■まあ、ええわ 教科書に載ろう
井戸さんは兵庫県姫路市の出身だが、田舎に帰るのが億劫だという。政経塾を卒業して、金儲けにもならず、自分が表に出るわけでもない仕事をしているから、いずれ選挙に出るだろうと思われているのだ。
「僕は、自分が関わっている事業が大きく動いていくのを、ひそかに見てるのが好きなんです。『私がやりました』っていうのはどうも……。自分がいなかったらできなかった仕事が何個できたかというだけのことです、基本的にはね」。
お金や社会的地位には関心がないと言いながらも、同世代が政治の世界や企業の中で活躍するのを見ると、自分はつまらないことをやっているんじゃないかとがっかりすることもある。そんな時は、「まあ、ええわ。俺、いずれ、日本史の教科書に載るようなことをやろう」と自分を励ますという。
井戸さんは歴史街道の仕事を一生続けるつもりはない。 「僕は第1走者なんですよ。誰がどうしてええかわからへんところで、何とかしながら道筋をつけていくのが向いている。第1走者の仕事は、スタッフが育ってくるとなくなるはずだし、なくさなきゃいけないんです」。それに、いつ辞めてもいいという態度がなければ、各団体との折衝はできない。できるだけ早く第2走者へ襷を渡したいと思っている。その後のことはまだ考えていないが、「日本じゃ絶対仕事したくないです」。
政経塾で井戸さんが松下幸之助塾主から学んだのは、「木を見て、かつ森を見る」目と、社会的仕事の価値だった。
「社会的仕事って楽しいんですよ、利益を追求するよりも」。ここで言う「社会的」とは「政経塾的」ということであり、「政経塾的」とは政経塾の「塾是」の考え方に合ったものということである。
また、「他人に信頼されて可愛がられることや、人前でも組織・体裁気にならへんから正しいと思うことをずけずけ言えることとか、絶対に本来の目標を見失わないこととかね。これ政経塾の進んだノウハウだと思うんですよ。そういうのは自分なりにうまく受け継げてるんじゃないかなあ」。
■関西最強の任意団体が見る夢
歴史街道計画の第1区を8年間走り続けてきた井戸さん。いま井戸さんの関心は、いかにして歴史街道を一発花火で終わらない永続的な運動にしていくかという点に集中している。
「注目されて地域が良くなる。地域が良くなるから注目される。注目されることで地域がさらに良くなっていく。このバランスと相乗効果をどこかでプッツンしてしまったら終わりですよね」。
また、阪神大震災で大きな被害を受けた地域と関係団体のことも気がかりだ。 「こういう痛みはみんなで分かち合わなければいけない。計画が何カ月か何年か遅れるかもしれへんけど、困難なときほど前向きに考えていかんと」。
協議会は、体裁よりも実質を取り、噛み合いにくい人たち同士の議論を調整しながら、歴史街道計画を進めていく。急激に進みはしないが、確実に半歩ずつ進んでいくのだろう。
日本は経済だけの国じゃないことを世界の人たちに知ってもらいたい。自称「関西最強の任意団体」が歴史街道計画の向こうに見ている大きな夢である。



















