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1993年度 地域から日本を変える1993年度 地域から日本を変える

1993年7月

Interview 「松村良幸」

桑畠健也/松下政経塾第9期生
 長崎県美津島町と聞いてその場所がピンとくる人はまずいないだろう。だが、対馬といえばどうだろう。日本で3番目に大きい島として、あるいはお隣り韓国に一番近い島として知っている人も多いのではないか。美津島町は、その対馬島内にある6つの町のひとつだ。

 美津島町町役場の封筒には、対馬全島の地図と、対馬と韓国、西日本の地図とが描かれている。九州本土とは結ばれていない矢印が、対馬と釜山の間には引かれてあり、わざわざ53キロメートルと書いてある。福岡と対馬の距離は132キロメートル。九州本土より、韓国のほうが近いのだ。

 また国内でいえば、福岡から一日7便飛んでいる飛行機が、長崎からは一日2便というように、行政的には長崎県にありながら経済的には福岡県との結びつきが強い。

 75年に開港した、対馬空港初代の空港所長だったのが現美津島町長の松村良幸さん(51)。

 「実はその時、町議選に出る予定だったため断ったけど、断わりきれなくて所長に就任したんです」と笑う。町議にも当選。しばらくは、町議と所長の二役をこなしていたというから珍しい。

 対馬生まれで大学は福岡。卒業後は和歌山県で自動車のトップセールスマンとして活躍していたというのも、町長の略歴としては変わっている。82年には町議会議員16名の推薦で町長選に担ぎ出され、見事当選。今年で3期目を迎えた。

■いきなり収入役を廃止

 第一印象は、成功した企業経営者。役人臭さは皆無。

 「企業は最小の投資で最大の利益をあげるのが使命です。ならば行政は最小の投資で最大の住民サービスを提供するのが使命」と言い切る。「人と組織があるかぎり、町役場であっても経営体である」と。和歌山県で自動車のセールスマンとして苦労したころから、骨身に染みている言葉であるという。

 それまでは「名誉職のような」町長が経営感覚を持ち込んだため、就任当時は摩擦もあった。

 いきなり経営的に必要性を感じなかった収入役を廃止、助役を2人にして管理担当と事業担当に振り分けた。収入役を廃止することについては内外からの反発が強かったが、地方自治法をよく調べてみると大丈夫とわかった。

 次に年度末に事業で予算を使いきるのをやめて、残った予算を元に次々と基金を創設。代表格は、昭和62年に生まれた「まちづくり担い手育成基金(基金1億円)」だ。他にも「スポーツ振興基金」、「町を美しくする基金」など15以上の基金がある。いずれも松村さんの言う、最小の投資で最大の住民サービスを提供することに役立っている。

 平成元年には総務や企画、財政をひとまとめにして、企画管理課を設置。昼休みにも戸籍や印鑑証明の窓口を開いた。「いやあ、もう大変でしたよ」と笑うが、職員との交渉も何度にも及んだ。

■過疎の町、流通業と握手

 最近になってやっと、役場の中にも経営感覚が浸透してきたと言う。特に転換点となったのは大手流通グループとの業務提携だ。

 「私たちの町には商品開発能力も流通のノウハウもありませんでした。大分県大山町のような先進地は15年から20年かけてノウハウを開発している。こっちでそんなにかかったら、過疎化が進んで人がいなくなってしまいますよ。2、3年でなんとかするにはどうしたらよいだろうかと、少々虫のいいことを、しかし、必死で考えました。

 最近は国や県の補助事業が行き届いているから、特産物をつくることはできる。だがそれは<製品>であっても、<売れる商品>ではない。本当の商品をつくるには、やはり流通や商品開発のプロに教えを請うのが一番の早道」と伝手を頼って大手流通グループと接触した。

 上京の度に顔を出す松村さんの熱意が伝わり、84年4月1日には「商品開発等相互協力に関する業務提携」がまとまった。「流通グループは対馬で取れる農林水産物を商品化するための専門家を送り込む。そのアドバイスを元に美津島町では特産品開発を町主導で行う」という内容。3年間の提携期間中、のべ300人以上の関係者、専門家が町を訪れた。

 できた商品の販売権は美津島町に帰属する。当時、先方の専務は「この契約で美津島町はどんなメリットを与えてくれるのか」と疑問をぶつけた。咄嗟に「韓国に近い小さな、人口1万人足らずの町と流通業界の雄が握手することは、広報上計りしれないものがある」と答えたという。事実、一躍全国のマスコミが取り上げた。この提携を報じた日本経済新聞は「過疎の町、流通業と握手」の見出しをつけた。

 業務提携を通じて町職員も民間の息吹を感じ、「焼岩のり」、「特長ヒジキ」など『対馬風土記』と銘打った一連のブランド商品が開発されることとなった。実は、品質では日本一を自負する対馬のひじきも、それまでは「伊勢ひじき」と命名され、売られていた。対馬のものが対馬特産の名前で「売れる商品」になったわけだ。

■美津島は香港になれる

 「辺境の町美津島も、逆にそのために大きな可能性を秘めています。ただ現在の国際化は東京中心の国際化であり、国境の町のメリットを享受できていない」というのが持論。 「たとえば、この町の立地条件を活かせば香港になることもできる。関税は商品と運賃で決定されます。韓国から中国への物流も、香港経由ではなく、対馬を窓口に日本経由で中国へ送れば関税も安くすみます」。

 聞けば、松村さんの卒業論文は「貿易論」。言うことにも筋が通っている。影響を受けた政治家が神奈川県知事の長洲知事というのも、学生時代に読んだ貿易に関する論文に感銘を受けてとのことだという。

 町議会で、予算編成のタイトルに「考え方はグローバルに、行動はローカルに」と見出しをつけたことから、「グローカリゼーション」という言葉を発明した。

 グローカリゼーションは掛け声だけに終わっていない。美津島町の自慢は、昨年4月に開局したMYT(美津島町有線テレビ)と、そこで放送される、週1回の韓国語初級講座である。

 日本で定期的にハングルの講座をテレビで放映しているのは、おそらくNHK教育テレビと、ここ美津島町のMYTだけであろう。

 韓国語講座を担当するのは呉喜善(おひすん)先生(58)。町が92年以来、韓国から招いている。呉先生は公民館で行っている町民への韓国語講座も担当、今では、町民の中で韓国でも充分話せる人が何人もいる。漁業の視察に釜山の魚市場にも行き、漁業に従事するもの同志が直接話し合ったこともある。

■これからは純金の時代

 松村さんの国際交流のポリシーははっきりしている。それは「人づくり」。

 「人づくりは結局、自分づくり。そして自分づくりは他者との交流から生まれる」と。さらに「自分の輪を広げることができる交流は異文化ほどインパクトが大きい。たとえば日本では食事時にお椀を持って食べるのが礼儀正しいとされるが、韓国では持たないのが礼儀。こんな驚きこそ自分づくりの原点」と考える。

 将来的には、対馬を韓国と日本との交流の拠点として整備していくことをめざしている。91年には「日韓文化交流フォーラムin美津島」、92年には「日韓交流シンポジウム」を町主催で開いた。また約15万坪の用地を取得し、日韓文化交流拠点施設「環東シナ海文化交流センター(仮称)」の整備に着手した。ここでは研究ばかりでなく、文化イベントや観光交流活動を通じて人づくりを進める。

 「新婚旅行で済州島に行くより、一番近い外国の対馬にいらっしゃいと釜山の人に勧めることもそのひとつ。施設さえ整えばどんどん人はやってきます」。

 研究や交流で終わらせることなく、辺境を逆手に取って、したたかに生き抜いていこうとする意図が見え隠れしている。これも経営者としての習性の成せるわざか。

 「これからは純金の時代がやってきます。メッキで塗りたくってもすぐばれてしまいます。いまやメッキでない本当の地金で勝負する時代でしょう」。そのための地歩は着々と固められている。




<松村良幸氏 略歴> ※いずれも執筆当時
昭和17年対馬生まれ。51歳。
昭和39年福岡大学商学部卒業。和歌山県で自動車販売の営業マンとして活躍。
昭和47年、家庭の事情で対馬に帰る。昭和50年4月町議会議員に当選。2期目の途中の昭和57年2月に町長に就任。誘致予定の企業の社員と会うときに、思いを示すため頭を丸坊主にしたという武勇伝も。町長引退後はクルーザーを買って海上を遊び回るのが夢。郷土史家を彷彿させるほど対馬の歴史に精通している。
1993年7月執筆
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